About me

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こんにちは。

YOKOSO 当ブログへ。
テンのマモンです。(マモンは仏語Maman=ママの意)

本ブログには、
夫トンス(1992生)息子テン(2020生)私(1987生)フレンチブルのマルセル(2014生)
そしてたまに私の周囲の愉快な人々(主に家族)が登場します。

定職に就いた時期もありましたが、
働いて然るべきの年齢 ※これについては考察を後述予定
になってからの大半をフリーランスで過ごしてきた私です。

フリーランスっていうとそれらしいですが、な、転職しまくったり主婦したり色々でした。

しかし、自分の強みや弱みや貢献できること、できるけどやりたくないこと、
色々考えて少なくとも10年は経っているでしょう。

そこで貯まった知見、特に国際結婚や子育てにおける考えは、

「自分には強みがない」

「何がしたいかわからん」

等々思っている方に「こんな生き方もありなんや」の一例として捉えていただけたら
役に立つもの「も」あるかも。

ということで今までの道のりを紹介をしていく次第です。

目次

簡単プロフィール
今いまのnow

・出身:京都
・年齢:1987生(計算してくだせぃ)
・言語:関西弁ネイティブ。関西弁 > 仏語 >>> 英語
・好物:人間観察、ホロスコープ観察、手を動かすこと(DYI・グルテンフリー菓子・料理・裁縫)
    読書、散歩、都市伝説、インテリア
・職業:インド占星術鑑定・瞑想ガイド・日仏通訳翻訳・フランス人専門プライベートガイド


ここから年代順に振り返りますからどうぞお時間のある方は読み進めてください。

幼少期から10代
青汁と宗教と古典

幼少期から小学校

割と病弱だったようです。(母上談)
確かに、今の息子くらいの年齢の自分を写真で見ると結構ギョッとするレベルのガリガリの手足でした。
病弱貧弱だったので当時はおそらくまだ珍しかったであろう青汁を飲まされていました。

「あーまずい!もう一杯!」の某9サイには到底なりえぬオエっと案件。

家が元々兼業農家ですぐ横に畑があった為、自家栽培のケールの葉による食物繊維バリバリの青汁
(現在は大麦若葉の青汁というのがあり、こちらの方が臭みもなく飲みやすいとされていますが、当時は勿論畑に植った自家製ケールの葉一択)を、ジューサーにかけて飲まされていました。

蜂蜜を入れたとて誤魔化しようのない苦さ。。。

幼稚園時代の文集?みたいなんの「きらいなもの」欄に「ケールのはっぱ」と書いては
先生に「ケールの葉ってなんですか、、、」と母に問い合わせがあったのも懐かしく。


思えば、私の健康に対する人生を通じた意識はこのケールの葉っぱから植え付けられたのでしょう。

小学校では根暗で人に合わせるのが好きではなく、休みたい放題だった幼稚園時代の名残もあって
小学校という場所になぜ毎日行って皆と同じことをしないといけないのか疑問を抱いていました。

中学校受験のために割と早めに塾などに行かせてもらって、
小学校のテストは100点が当たり前だと思って過ごした6年間。

クラスの下克上はやっぱりスポーツができたりやんちゃでも華のある男女がカーストの上にいるもの。


勉強ができることは嫌われる要素にしか私の場合はなりませんでした。

ひどくはなかったですが、軽度のいじめ(無視とか)にあっていましたね。
そして通信簿には毎回「協調性が足りない」「寝坊が多い」「忘れ物が多い」と書かれていて・・・

その後中学受験では勉強の甲斐も虚しく第1志望は不合格となり、
第2志望だった女子校に入学。

中高時代

入って1年生の秋か冬?くらいにまたもいじめに遭いました。

ここまでくると考え始めます。

イジメにあった小学校からは電車で30分の距離にある中学に通ったので、
全く知らないフィールドのはずが、またイジメに遭ったので、


自分の何かがおかしいのだ、


と思うに至ります。


そしてこの学校は、仏教(浄土真宗)系の中高一貫校で、毎週仏参というものがあり、
キリスト系でいう礼拝と同じ感じの時間がありました。

それとは別に宗教の時間も週1であり、

「死ぬ」って何ナン?「生きる」って何ナン?

という死生観を涵養した、もの思う思春期を過ごしました。

他者と同じにはなれないからイジメに遭うのならば、

合わせるための努力よりも1人でいても平気な孤独耐性をつけた方が良い


という戦略に変わっていきました。


また、ここでは宗教、古典、歴史に結構力を入れている学校であったことで育まれたものは多くありました。


元々は宗教(浄土真宗)教育を土台にしているわけですが、
それの成り立ち(歴史)とその過程を知るための原典を読む(古典)という付随するものだったのでしょうね。


当時の名物国語教諭による古典は、毎回当てられ、答えられないと立たされるという恐怖のお時間でした。


とりかへばや物語、伊勢物語、源氏物語、土佐日記、といった名著(というんかしら)を次々読ませられ、
中高一貫でしたから高校でもそれが引き続きました。

おかげで大学受験時のセンター国語の古典などは何もしなくてもすらすら読めました。


古語で書かれていると現代人には一見すると難しそうで、
カモフラージュされて見えますが、

破廉恥だったり突拍子も無かったりとかなりインモラルな世界観(源氏は最たるバイブルだった)が古典には広がっていました。


それらを読んでは

「あゝ人って自由奔放に生きていいのだ」と「ものごとは見た目で判断してはいかんのだ」

という意識の萌芽を育ててくれた時期でした。



図らずとも思春期に読むものというのは、こうして後年に影響を大きく与えるのだなと実感している次第です。


高校1年の夏休みには、苦手だった英語を克服するために本場の英語に触れてこいということで
行かせてもらって父の友人宅のあるアメリカ・アトランタに短期留学。※この時の考察はまた後述予定


バケツほどのデカさ(一応Lサイズだった)のコカコーラ、

ビッグマックサイズのハンバーガー(こちらはSというか普通サイズ)、

自分の3倍はあろうかという腹囲の男女。


こうした古典文学とは真逆の世界線に立ったとき笑、吹っ切れる何かがありました。

そして現地の高校にも2回ほどホストファミリーの子に付いて通ったのですが、
そこでもいじめられました。笑

何も喋っていないのにいじめられるってナンなんや。

まぁ今思えばアジア人の少ない学校だったので、人種差別なのか?


よく映画やドラマに出てくる食堂で注文するときに、(本当にピザやハンバーガーしかなかった)
どう考えてもきちんと発音している(つもり)なのに、

「huh?」(=ハァ?)

って言われて腹が立ったものでした。
(ホストファミリーの子が「大丈夫、僕はわかったから!!」とフォローしてくれましたが、、、)

日本では「アリガトゴザイマス〜」って非日本語話者がちょっとでも言おうものなら
「日本語上手ですねェ!」という言語甘やかし文化がありますが、それと真逆です。


アメリカ英語の強さで非情に突っぱねられた経験でした。

それは相手に伝わるように話さないと、私が知っているままに話しても伝わらないと強烈に学んだ瞬間でした。


現在インド占星術の鑑定を通して見ると、
ホロスコープにはあなたの「種」が何なのかが書いてあります。

しかしその後、

どのような生育環境で育ったか?
どれくらいの水、肥料、太陽を浴びたか?
どれくらいの環境ストレスを得たか?

諸々でその種の発芽状況は変わります。


自分の意図しない出逢いには特に、才能の種の発芽にブーストをかける契機が隠れているんだと。


私の場合、第2志望中学校への入学とそその後の中高一貫の学校生活で吸収した全て、
はまさに意図しない出逢いであり、
人生における第一段階の化学反応を起こしてくれたんだと実感します。


その後は無事進級を続け、
高校3年の進路相談時、完全に当時の学力を逸脱した志望校を挙げた私。

それに狼狽える担任、
「なんで娘の将来があんたにわかんのや」というヤクザな母上、
合いの手を入れる父上、との夏の三者面談の後、
見事にっていうか当然のように現役合格はならず、そのあとは予備校に通いました。

しかも2年。 

10代はあっけなく社会において無いものでもない者として終えていきました。

しかも2度目の春に桜は咲かず、

「もう勉強いやや」の飽き性の私は、
滑り止めに受かっていた2校のうち地元京都の私大に通うことになりました。
※この入学校選定にはちょっとしたお話がありますがそれはまたの機会に。

20代
フランスとの出会い

大学時代

よりによってまた文学部哲学科という「就職先どうすんねん」と言われた進学先を選びます。

と言うのも、私の上に4つ上の姉がおり、姉も全く同じ関西私大の哲学科に行って就職したもので、
「考えるの好きやしええか」という超安易な理由で同じ所にいったわけです。(大学は違う)

哲学科にはいると、うちの大学では第2外国語にドイツ語かフランス語かを選ばねばなりませんでした。
(つまりそれ以外の選択はない)

能天気にイタリアン好きやし行ってみたいしイタリア語を選びたいと思っていた私の夢はソッコー破れます。


どうやら誰を勉強するか(デカルトとかバタイユとかナンとか)によって読む本が勿論決まるから、
それを原典で読むための語学だったようです。


みんながなぜかドイツ語を選ぶので、(単位がとりやすかったらしい笑)
私は天邪鬼が顔を出し、フランス語を選びました。


選んで束の間、1回生(←関西だけの呼称だとのちに知りました。要するに1年生)の授業に山盛りあるフランス語と英語(第1外国語)に辟易します。


特にフランス語はチンプンカンプンで、アレルギーを発症レベルで
行くのを放棄した授業がいくつもありました。

が、心優しきおせっかいな同級生と先輩に
「語学は4年まで持ってたら地獄やで、朝1のとか多いから。しかも必修やし取れへんかったら卒業できひんで。」
と脅され、


1年目にして卒業できない可能性がすでに浮上することに驚きます。@1年生の秋


2年生からは力を入れて履修すべく、学外の語学塾に通いました。

続けられる所を見つけるために京都中の色々なフランス語学校に体験に行きましたが、
その中で最も自分に合っていたのが游藝舎でした。
(PRではないのでここから飛んでも特に特典はありませんので悪しからず。)


バイトをし、フランス語を学び、に明け暮れた大学時代。


就活というモラトリアム終了ゴングが鳴らんとし始める3年生の時、
一応リク⚪︎⚪︎などに登録して説明会などに行くも皆んな同じ格好をして同じ顔をあつらえ、
並ぶことにとても疑問を抱きました。


すでに二浪している私は、本当の年齢の同級生たちはすでに働いている頃。


もう既に人と少し違う進路を生きはじめた自分は今更人と同じ道に戻ろうとしなくてえっか(なんたる極論)
と思いはじめました。


その頃、ちょうどあの東日本大震災が東北地方を襲いました。
諸々が壊滅し、説明会はじめ就職活動自体が様々な企業で遅延というか延期というか。


そこで昔とった杵柄の死生観がヒョッコリ顔を出し。


「人はいつどこで死ぬかわからない」


んだと強く思いはじめました。

ある朝、風邪っぴきで熱にうなされた母が、
ダイニングに来て机の上に置いていたチラシ(私がもらってきていた)をみてポツリ。


「フランスに留学するとかせんでええの?」

「ゑ?してええの?」


気にはなっていたものの特段真剣には考えていなかった進路。

光明がさした思いで早速にリク⚪︎⚪︎アカウントは削除し、(毎日届くお知らせが苦痛でしかたなかった)
渡仏準備に邁進することになりました。


母の持論で「語学学校に入る為だけには行ったらアカン」という条件の元、
あれこれ思案しました。

モード?フローリスト?メイクアップ?

どれもピンとこないなか、

「そうや、パンならいけるわ」

当時サンマルクでバイトをしており、冷凍生地ではありましたがパンを焼いていました。

そもそも語学を塾でやってたとはいえ、現地校であまり日本人もいない中やって行くには
せめてやる内容はわかっているものでないと、、、

という戦略から、フランス北部のルーアンという所にある製パン学校を留学先に決定。

※実は入学に際して必須だった語学レベルを満たしていなかったけれど、
日本人のいない学年で、しかも人気の製菓ではなく製パン学科だったもので入れてしまいました笑
フランス人のテキトーさに驚いた第一弾目の出来事でした。(そんなものは序の口だとのちに知る)

無事大学は卒業単位ちょうどで卒業し、
みんなが新卒で働いている中、揚々とフランス行きの飛行機にピョン。

パン修行時代 −ルーアン編−

朝は4時起き、午前に製パン室で実技、午後から座学(朝4時起きだから基本みんな船漕ぎの時間)
朝からは9時から座学でその後昼休憩を挟んで午後いっぱい夕方17時くらい?まで実技の日の交互。

とにかく体力的にはきつかったけれど、充実していました。

とともに、フランス語はヤッパリ死ぬほどやりました。


母の教え、「語学は学びに行くんじゃなくてツールやで」が何度も脳裏に・・・

まんまとその通りで、できて当然の環境に入ったのでやらざるを得ず。


ちなみに、フランスの試験は
日本式のマルバツや選択するだけの設問はほぼありません。


全てにおいて記述。(だから論理的思考とフランス語と両方が必要)

そして口頭設問もありました。(試験管は確か3−4人いたかな)


入って製パン室での肉体疲労、
毎日のフランス語漬けによる頭脳疲労、

諸々ピークでしたが、
私の生き残り戦術はゴリゴリの方法:


That’s 丸暗記⭐︎


過去問(7−8年は悠にあったかな)を洗い出し、

どんな設問がどのように問われているか、

とにかく全て丸暗記。

フランス語が弱いのだから、全文設問ごと丸暗記しました。

教科書も丸暗記。


そうして無事5ヶ月の学校を卒業し、

卒業の後はCAPという国家資格試験(パンの国家資格。手に職系の最低限の資格で、これがあれば特に外国人の場合、雇ってもらうときに学歴として謳える。)があり、それにもなんとか無事合格。


卒業後にスタージュと言って修行ができる制度があり、

周りは学校の寮から通えるパン屋に修行に行く中、私はとある出会によって

「華のパリに、行かんと何してんねん」
という叱咤をあるフランス人にうけてパリ行きを決めます。

2週にいっぺんの頻度で、作った食べてみたいパン屋リストを片手にパリへ行きました。

ですが結局修行先は、そのリストには入っていない、
たまたま通りがかったパン屋に行くことになります。※この時の話は後述

パン修行時代 −パリ編−

まだ1ユーロ100円時代。

とは言っても外国人の研修生にパリ住まいは高く、
今も存在する、ジモティのフランス版的な(本家ジモティもジモティパリがあるけれど)プラットフォーム

ボンコワンてやつでシェアメイトを見つけます。
(今思えば結構危険ですから、自己責任で。知らん人と急に住むわけですから、、、)


そして晴れてモンマルトルというアメリの舞台になった場所で、
徒歩10分の場所に家と修行先を見つけ、パン修行を始めたのでした。


ナンとそこ出会った上司(そもそも彼女の存在によってここに決めた)は後に親友になり、

NANTO

義姉=家族になってしまいます。(真実は小説より奇っていうか喜なり。)



手に職、後のオットを得た20代。



パリ時代はキツくも楽しい時間を過ごしました。


しかしなんと言ってもパン職人の朝は激早。

同業者しか基本友達がいないのが特徴です。

だって時間が合わないからネ。



そして

パンを焦がす夢、

酵母を入れ忘れる夢、

をみたことは忘れられません。

特に後者は私ではなかったものの実際に店であった事件で、
300キロの小麦粉をオジャンにする所でした。


こんな夢を見るほどですが、兎角夜はきっちり寝ることを課し、
早起きも一生分したので、


もう早起きはええかな、と思っているアラフォーの今です。


ですがこの時代の身体的・睡眠的苦痛に耐えたことは、
出産後に役に立ちました。


あの時代と似ている、
という既視感しかなかったですね。


アラームではなく赤子という有機的な存在に起こされる、
そして数時間おき、ということではなかったのですが。。。



帰国後、日本の小麦や、パン屋事情を全く知らないため、
開業を目指して地元のパン屋に修行に行きます。


しかしなんと。


そこで小麦アレルギーを発症するんですネー。

探し物はなんですか♪ 自分探しと転職の鬼時代

小麦アレルギーの診断に、実はホッとしたのもありました。

パン屋の道は本当に体力勝負。

日本でのパン屋修行は、フランスとは全く違いました。

パンはフランスでは主食であり、競合もたくさんいる職種ですからスピード・質の勝負です。


全てがほとんど機械化されていて、計量・生地を切る・丸める・全て機械がやるわけです。
(パン屋の規模にもよりますが)

対する日本は全てが手。

パンはいつまでもNo.2の座であり、米という本妻には及びませんから、
機械に投資せずパン職人たちの手と労働時間(超長い)に依拠しているんですね。


これに驚いた私は、
ちょっとやばいかな・・・と思い始めていました。


そんな時、

ぎっくり腰 &小麦粉アレルギー &ドーナツの塩と砂糖を間違える失態

のトリプルパンチにあい、

お店の方にも本当にすみません、ということで辞職。

その後、時を同じく日本にワーホリできたパリ時代からのボーイフレンドと結婚します。

30代

20代後半から続いて30代前半は
フランス語講師、フランス語インターナショナルスクールで日本語教師アシスタント/美術教師/教務、
領事館事務、メイクアップ、翻訳・通訳、ガイド、タロット占い師・・・・

それはもう数年おきに職業を変えました。

今も続くものもありますし、辞めたものもあります。

そして30代半ば、

大きな出会いは、占星術と瞑想でした。

占星術の一番目のシショー(勝手に。弟子は取っておられません)は

星読みYujiさん。

忘れもしない2019年でした。
その当時、Yujiさんはゆじたびというものをされていて、

足(移動手段)・飯(ご飯)・技(何らかの技術)

との交換で星読セッションをしながら全国行脚するという企画をされていました。

当時、(失礼ながら)今ほど多分有名ではなかったと思うんですが、
私はふんわりと存じ上げており。

たまたまオットと里帰りでパリにいた折、YJ師もパリでイベントされていたのを見て何かのご縁を感じました。

帰国したら京都へ来られるとのアナウンスに即応募。(飯で応募しました。)


そこで見ていただいた内容の1番の肝は


TodoではなくTobeで生きる人である


という事でした。

何を職業とするか色々悩み、あれこれトライし、それが見つかると思い込んでいました。

が、

何をやるかではなく、どう在るかがそもそも仕事になる人なんだと・・・・


なんてこったい。

その後、YJ師のする実生活に即役立つ星の読み方を、
師のブログを隅から隅まで読んで実践するうち、

独学でかなり星読みができるようになり、人を少し鑑定したりもしました。


そうこうしているうちに、

私生活では32歳で出産を迎えます。


妊娠期間は、2020というコロナ禍真っ最中でした。

マスクと重いお腹、もたげる不安、諸々を緩和すべくマタニティ専門のヨガ講師になれるコースを受講。

それが思わず今までの遍歴をつなげてくれるキッカケになります。


このヨガコースでは、

・ヨガそのもの
・アーユルヴェーダの知識に基づいた食べ物の食育的な講座
・呼吸法を伴う瞑想の講座

がセットでした。


特に、食育と瞑想はとても気持ち良く、
妊娠期をとても心穏やかに過ごすことができました。

瞑想は先生の声が良すぎていつも寝落ち・・・

先生は「眠かったら寝たい、という体のメッセージですよ〜」という方だったので、

身体がどうありたいか?
という視点を得たのはこの先生のおかげでした。

その時に、

瞑想って難しくないんだ

気持ちよくあるものなんだ

瞑想は身体を内観するためのツールなんだ


という考えを強く持ちます。

現在

息子が保育園に通い、卒乳し、二足歩行し、となってジリジリと手がかからなくなった折、
諸々の鑑定や施術を受け(元々自分をいろんな観点から知るのが好きだった)、

ある人にインド占星術家を紹介されます。

元は母にどうか、とその人は紹介してくれたのですが、

母は私の方が適任だということで、
まずは実際の鑑定を受け、

その後に私も鑑定家になる、ということで養成コースに入りました。

この師匠が人生2人目のシショーです。

妊娠期からありとあらゆる五覚過敏とでもいうか、
直感も冴え渡り、特に臭覚過敏は異常でした。

おそらく、母親になるという本能がどこかでスイッチオンになったのでしょう。

特に匂いを察知するというのはリスク回避に大きな役割を果たします。

例えば、コンビニのコーヒー。

コーヒーマシンの横を通るたび、

特にホットコーヒーの場合、紙コップに塗装されているであろう被膜?のような液剤が、
抽出されたコーヒーに溶ける匂いがしていました。


注射をしない医師との出会い、触らない施術家との出会い、そしてインド占星術家との出会い。


マジカルな要素を強くしてきた30代後半でした。


今は、一番はじめに書いた事を生業としています。


今後は、当ブログで

今まで得た知見と出会ったマジカルな諸々を、
国際結婚と子育てを通して、インド占星術を切り口とした「人材育成」の観点から
シェアしていきたいと思っています。

題して全ては「全ては星のせい。」


どぞ、よしなに〜

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